【クローズアップ】桃田賢斗、世界一への軌跡<その1>

自身初のオリンピック出場を、ホームである日本で、そして世界一として迎えた桃田賢斗。その道のりは決して平たんではなかった。桃田賢斗のこれまでの軌跡をあたらめて振り返る。

ヒーロー誕生

「ここで勝ってヒーローになろう」

桃田賢斗、内心の武者震いは2014年5月23日、中国とのトマス杯準決勝。第1単の田児賢一、第1複の早川賢一/遠藤大由が勝利し、日本は中国からの歴史的勝利、そして史上初めての決勝進出に王手をかけている。第2単に登場する初参戦の桃田は当時19歳。相手の杜鵬宇(ドゥ・ペンユ)には、1月の韓国OPで完敗しており、もし桃田が落とすと、以降のオーダーからは中国が有利か。それでも桃田は臆せず、勝ったらヒーロー、とポジティブにとらえた。

2014年トマス杯での桃田賢斗。大一番の準決勝、決勝では落ち着いたプレーで次々と格上選手を撃破した

事実、杜を2-1で降し、絶対王者・中国の牙城を崩すヒーローに。中1日置いたマレーシアとの決勝でも第2単で勝利し、2番手として5試合すべてを勝った桃田は、初の世界一という偉業に大きく貢献した。

このトマス杯前、桃田の世界ランキングは、4位の田児に次ぐ14位で日本人2番手に過ぎない。富岡高校(現ふたば未来学園)時代の12年、日本人男子として初めて世界ジュニア選手権で優勝したが、13年、NTT東日本入社当時は「世界ランキングを上げ、まずスーパーシリーズ(SS、現在のワールドツアー=WT500以上に相当)に出ること」が目標だった。その13年、格下大会の優勝でポイントを稼ぐと、4月のオーストラリアOPでSSに初出場。場数を踏みながら力を蓄積し、11月の中国OPベスト4入りなど、年末には前年末の90位から14位まで、一気に世界ランクを上げた。ト杯で優勝した翌14年末も、ランキングは13位を維持している。

世界へのアピール

ここまでを起承転結の「起」とするなら、15年は「承」だ。4月のシンガポールOP。日本男子シングルスではだれもなし得なかったSS初優勝を飾ると、6月のインドネシアで2勝目。さらに年末には、その年のトップだけが集まるSSファイナル(現WTF=ワールドツアーファイナル)でも、日本人としてはシングルス初優勝(女子単で奥原も同時に優勝)を果たし、年末には世界ランクも3位まで上昇。大学3年にあたる年代の桃田は、飛ぶ鳥を落とす勢いで一気に世界トップに肉薄するのである。

ときに超絶ネットプレーで見る者を魅了しながら、本人の勝因分析はいたって地味だ。「世界で戦っていると、目先の技術ではなく、結局はガマンできたほうが勝つんです」。この15年はフィジカルの強化もあり、以前より「ガマン」が可能になった。それが好結果につながった、というわけだ。そして、と続ける。「1回だけの優勝と2勝、3勝では全然違うと思う。一度はラッキーで優勝できても、2回目はまぐれでは勝てませんから。過去、日本人ができなかった優勝を、しかも年間に3回というのは、けっこうすごいことだと思いますし、自信になります」。

躓き、そして再生へ

満を持して迎えたリオ五輪イヤーの16年。4月のインドOPで優勝し、当時自己最高の2位まで世界ランクを上げ、五輪でのメダル獲得さえ見えてくる絶好調ぶりだった。だが……順風に見えながら、まさかの「転」。16年4月、違法賭博事件が発覚。日本バドミントン協会は桃田を日本代表から外し、無期限の競技会出場停止処分を科すことになる。メダルまで期待されただけに、世間は失望するし、本人にとっては五輪の出場権さえ霧消してしまう、あまりにも大きな陥穽(かんせい)だった。

処分の期間は試合には出られず、バドミントン教室や地域貢献活動のほかは、黙々と練習するしかない。ようやく出場停止が解けたのは、翌17年5月の日本ランキングサーキット(RC)だ。1年以上のブランクがあった実戦を桃田は優勝で飾るのだが、ここからが新しい桃田のスタート、と振り返るのは日本代表の中西洋介コーチだ。

「B代表のコーチ時代、高校生の桃田を見ていましたが、社会人になってあまりに体重が増え、シングルスの選手としてはどうかな、と危惧していたんです。ですが、謹慎期間中によっぽどトレーニングをしていたんでしょう、RCの映像を見るとすごくスリムになっていました。この年に私はA代表のコーチになり、処分が明けた桃田は翌18年からA代表に復帰するんですが、実際にコートに立つとトレーニングの成果が明らかで、フィジカル的な数値も処分前より上がっていました」

もともと桃田は、走ることや筋力トレーニングなど、体をいじめるストイックな練習は好きではなかった。勝つためのキーワードである「ガマン」のためには、トレーニングによるフィジカル強化が不可欠だとわかっていても、辛さから目をそらし、ある程度のところでお茶を濁していた。それが大きく変わったのは、謹慎期間中のことだ。

「それまでは、筋力や体力が足りないことはわかっていても、技術で勝てばいいだろ……と、トレーニングには熱心ではなかった。どこかちゃらんぽらんで、自分にも競技にもしっかり向き合えずにいたんです。ですが自分の軽率な行為で、応援し、支えてくれた人の期待を裏切っただけではなく、チームも対外活動自粛……いったいどれだけ、周囲の方々に迷惑をかけたか。それでも、もう一度バドミントンをさせてもらうんだから、せめて苦手なことにこそ真剣に取り組もうと思ったんです。もちろん、支えてくれた方々への感謝としては、その程度ではまだまだ足りないんですが、その間のトレーニングで体脂肪は明らかに落ちましたし、スピードも速くなり、前とは違う感覚でシャトルの下に入れるようになっていました」

富岡中・高の1学年上で、現在もNTT東日本の同僚である齋藤太一によると、

「桃田の処分は、僕が入社して数日後のことだったのですごく驚きましたが、あれをきっかけに、桃田は変わりましたね。それまでは自分から走ったり、率先してトレーニングをするタイプじゃなかったんですが、すごくストイックに練習するようになった。立場を自覚して、話すときも言葉を選びますし、人間的にも大人になったと感じます」

桃田本人は、強い言葉で当時の心境をこう表現する。

「あれだけ人を裏切り、迷惑と心配をかけ、それでもなにも変わることができなかったら、人として、男としてどうなんだ? と。変わらなくちゃ人として終わりだ、と考え抜きました」

それだけの決意で、「人として」変わった桃田。修行僧のようなトレーニングの日々を経て、プレーヤーとしても変わった。「トレーニングで体が強くなった分、フィジカル勝負という引き出しが増えた」(桃田)のだ。中西コーチがいうように、新しい桃田のスタートだ。

2016年に無期限の競技会出場停止の処分を受け、試合ができない期間は、ボランティアやイベントの手伝いなどを行なっていた。写真は2016年11月の熊本地震復興イベント

とはいえ、謹慎処分前には最高2位まで上昇した世界ランキングは白紙に戻った。もう一度世界へ挑戦するには、1からポイントを重ねなくてはならない。さらに、復帰戦のRCで優勝はしたものの、その時点での桃田はまだ、日本代表ではない。国際大会に出ようとすれば、遠征費を工面しながら、小さな大会をコツコツ回り、確実に勝っていくことが必要だ。「ただ、グレードが下の大会を転戦したことで、いま思えばいろいろな相手への対応力を磨いたと思います」と話すのは、17年に復帰した直後の桃田に帯同し、海外を転戦したNTT東日本・佐藤翔治コーチだ。

「出られるのは世界ランキング下位クラスの大会ですから、かつてプレーしていたトップ級の争いと違い、さまざまな選手がいます。やたらと身長が高くてスマッシュが強烈とか、とんでもなく粘り強いとか、フォームが変則とか……。しかも分析しようにも、過去のデータは何もありません。なかには、いま世界トップに成長している選手もいましたから、下位が相手でも楽な試合ばかりではなかったんです。それでもとにかく、ランキングを上げるには勝たなくてはいけない。かつての世界2位は、そのカテゴリーでは実力はダントツですから、なおさら負けられません。対して相手は、失うものはなにもなく、ガツガツ向かってきます。そういう状況で戦ううちにリスクを避け、ミスしないようなプレーが自然に身につき、ガマンして勝つ方法を覚えたんじゃないでしょうか。型にはまらないいろいろな選手と対戦することで、対応力や、試合の流れを見る目もかなり鍛えられたと思います。桃田は翌年からA代表になりますが、RC以後の17年の海外遠征は、貴重な経験でしたね」

※「桃田賢斗、世界一への軌跡」<その2>に続く

取材・文/楊 順行

桃田賢斗が世界一になった30の理由

投稿日:2021/07/25
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