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【新春特別インタビュー】ヨネックス株式会社・林田草樹社長〜その1

ここでは2017年の新春特別企画として、バド×スピ!限定のスペシャル・インタビューをお届けします。ご登場いただくのは、日本のメーカーとして世界のバドミントンをリードするヨネックスの林田草樹・代表取締役社長です。選手としてもインターハイでの優勝経験を持つ林田社長に、自身のバドミントンとの関わりや今年の会社としての意気込みをうかがいました。

We love badminton

はやしだ・くさき◎1957年10月5日、熊本県生まれ。中学1年からバドミントンを始め、中3時に全国中学校大会(当時は都道府県対抗の団体のみ)で3位に。九州学院高3年時には、熊本県の選手として初めてインターハイ(男子シングルス)を制す。その後青山学院大に進学し、4年時にインカレ男子シングルス4位に。1980年にヨネックス株式会社に入社し、2015年6月に代表取締役社長に就任。

 

バドミントン王国のきっかけとなるIH制覇

――まずは、社長ご自身のバドミントンとの関わりをお聞きしたいと思います。林田社長はインターハイでもチャンピオンになられていますが、そもそもバドミントンを始められたきっかけはなんだったのでしょうか。

林田 それが、あまり覚えていないんです(笑)。まず小学校から中学1年の秋くらいまで、サッカーをやっていたんです。ただ、当時の中学の先輩がワルばかりで(苦笑)、問題を起こしてサッカー部が廃部になったんです。それで、友人がたまたまバドミントンやっていて、「遊びに体育館来いや」ということで、1年の秋に体育館に行ったのがきっかけかな。

──当時、バドミントンへはどういうイメージがありましたか?

林田 当時は女子のプレーヤーが多かったこともあって“女の子のスポーツ”というイメージはありましたね。でも、やってみるとおもしろかった。それで翌年、2年のときに第1回の全中に出たんです。

──始めて1年足らずで、ということですか?

林田 そうです、競技人口も少なかったので。当時の全中は都道府県の選抜チームで争う団体戦しかなかったんですが、メンバーに入れたんです。3年のとき(1972年)も出場して、3位になったのかな。やはり勝っていくと楽しくなるし、負けると「次は勝ってやろう」という闘志みたいなものが燃えてきて…。それで高校へ行っても続けました。

──高校は九州学院でした。そして3年のとき(75年)にインターハイのシングルスで優勝。

林田 (九州学院は)当時はそこそこ強かったですね。いずれにしても私が熊本県で、また九州で初めてインターハイで優勝したんです。

──その後、「バドミントン王国」といわれる熊本で、ですね。

林田 そのきっかけは何だったかというと、「あいつが勝てるんなら、俺らも勝てるんちゃうか?」という……いや、本当ですよ(笑)。当時、中学の後輩でそこそこ強かったのがいたんですが、「林田さんが優勝するなら、俺らも優勝できるぜ」といって、そのあとに熊本が全中で優勝しているはずですよ(編集部注:75年から3年連続で優勝している)。私自身はトレーニングも苦手、練習も苦手、試合だけが好きな選手だったので、そんな笑い話も出るほどなんです。

──でも、当時だと練習も厳しかったのではないでしょうか。

林田 2年、3年とインターハイに出ましたが、2年のときに準優勝した選手に2回戦で勝ちそうになって、結果的にはファイナルで負けたんですが、そのあとで監督が「来年はお前、悪くてもベスト4だな」と夢のようなことを、それも授業中にいったんです。それで翌年の春に監督が「さぁ、本腰入れてやるぞ」といったんですが、その後、糖尿病で倒れて、全く練習を見にこられず、大会前に合宿もできずで…。

──それでも優勝された。

林田 だから相当強運だな…といまでは思っています。印象に残っているのは、ベスト4に入ったときに、監督が(糖尿病で)帯同していないので、コーチが熊本に電話をしてつないでくれたんですが、「先生やりました!」といったら「バカモン! まだ試合が残っている」と怒られました。「(目標は)ベスト4だ」といわれていたので、自分は目標を達成した思いでいっぱいでしたけど、監督は「こんなんで喜んでいるんじゃねえ、まだ試合が残っているだろう!」と。それで準決勝、決勝と挑んだら勝てちゃったわけです。

そこからは練習好きな後輩が多くいたので、九州学院はどんどん強くなっていきました。学校としての全盛期は、権藤(浩二、現八代東高バドミントン部監督)が2年のとき。3冠をとって頑張っていましたからね。

 

高3のインターハイでは男子シングルスで優勝。当時の様子を伝える日本バドミントン協会発行『バドミントン界』には「素晴らしいスタミナを生かして堂々の優勝」と書かれていた(『バドミントン界』1975年8月号より)
高3のインターハイでは男子シングルスで優勝。当時の様子を伝える日本バドミントン協会発行『バドミントン界』には「素晴らしいスタミナを生かして堂々の優勝」と書かれていた(『バドミントン界』1975年8月号より)

 

バドミントンで得た人とのつながりが生きている

──当時はどういったところにバドミントンの魅力を感じていたのでしょうか。

林田 駆け引きというか、だまし合いというか、「こっちに打つぞ」と見せかけて違うところに打つとか、そういったおもしろさですね。いまはスピード感が大きな醍醐味だと思いますが、とくに昔は――もちろんスピード感がある人もいましたが――より駆け引きを重視しながら、どちらかというとスローなバドミントンだったので、それはそれでおもしろいと思っていました。

──ちなみに、いまの選手でたとえると、誰のプレースタイルに近いのでしょう。

林田 のらりくらりでしからねぇ…、いまはあまりいないんじゃないかな。それほど強く打つわけでもないし、つないで、要所でポイントを決めるスタイル。どちらかといえばレシーブ型だったのかな。

──ラリーの中でポイントを取るには、バドミントンのことをよく知っている必要があると思います。

林田 やっていると「こういうところから、こういうふうに打つと大体決まるか、決まらなくても次がこういうふうに来るだろう」なんていうツボみたいなものがあるんです。もちろんそれが通用しなかったら負けるんですけど、そういったツボを押さえていたというか、比較的バドミントンの要領がよかったんでしょうね。

──要領がいいといっても、部活は一生懸命取り組まれていたのではないでしょうか。

林田 もちろん。やるときとやらないときはハッキリしていましたが、インターハイ前とかになると、朝も夜も毎日家から走って通学していましたからね。当時は『バドミントン界』という、協会が出している雑誌くらいしかなくて、先生がたまに購読して、それを少し見せてもらう程度だったので、練習の情報もほとんどなかったです。

──先生が考えたメニューを必死にやるという感じですか?

林田 そうですね。それか自分らが不得意とするものを課題として行なったり。あとは「相手の弱点を見つけよう」とか、「どんなプレーが得意なんだろう」とか、そんなことを仲間で集まって考えていたような気がします。

──そんな高校時代を経て、大学は青山学院大学に進学されました。

林田 いまでいうセレクションとで大学に入りました。当時、青学は関東大学リーグの2部と1部の入れ替え線上にいましたね。入った時は2部だったかな。

──大学時代はどういう思い出がありますか?

林田 もちろんバドミントンもやりましたが、それ以外のさまざまな社会勉強も幅広く…(笑)。3年まではそんな感じで、4年のときに最後だから一生懸命やろうと思って、関東リーグは何とか1部の下位でできました。インカレは団体でベスト4に入って、個人でもシングルスでベスト4に入りました。当時は3位決定戦をやっていて4位でしたが。

ベスト4入りが決まったとき、ほかのベスト4の選手には負けたことがなかったんです。ほかの大学の選手から「お前、高校以来また優勝だな」なんていわれて、舞い上がっちゃって…。そこからからっきしダメでした(苦笑)。それが一番の思い出でしょうか。でも、そうやって大学時代もバドミントンに取り組んでいたことで、ヨネックス(入社)とのご縁をいただきました。

──もともと働くとすればメーカーがいいな、というのはあったのでしょうか。

林田 いえ、当時は働くという考えがあまりなくて。とはいえ、何かしなきゃいけないなという感じで、自分がやってきたことが手っ取り早く生かせるのは何かなと。そうしたら、お声がかかって…。そんな感じなので、今回のインタビューを受けるのも恐縮なくらいです。

──そうだったんですね。では、ずっとバドミントンをやられてきて、自分の中で得たものはなんでしょうか。

林田 当時は「得たもの」なんて考え方はなかったと思いますけど、バドミントンに限りませんが、「人とのつながり」でしょうか。熱心な指導者の方々と一緒に悩んだり、仲間と一緒にやり取りしたりというのは、振り返れば非常に大事だったんだなということは、いまつくづく感じています。

──いまは会社の代表として、当時バドミントンでつながっていた方々とコミュニケーションが取れる状況にもなっています。

林田 そうですね。その意味でも、バドミントンで得たものというのは、本当に人とのつながりなんでしょうね。この業界の中での立場ということを考えてもそうですね。バドミントンをやっていなければ、いまの自分がないのも当たり前ですし、こうしてメーカーという立場で世界のバドミントン業界に関わるということもなかったはずです。そういう意味で、バドミントン競技との出会いはかけがえのないものだったと、あらためて感謝しています。

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投稿日:2017-01-01
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